Monday, May 28, 2007

久々なのでテスト

テストです。

Saturday, August 19, 2006

明星 夏季講座 3週間経過

明星に来てから早くも3週間が経った。今のところは順調に事が進んでいると思う。今日は、科目のテストがあった。スクーリングなので、テストの傾向も甘い、実に甘い。落ちることはないだろうと、いつも高をくくっている。論述試験といっても、事前にテストの問題を教えてくれるし、持ち込みも可なんだから、ストレスなんかない。全部が全部そういうわけではないけれども。

今、マックでこれを書いている。ヤッフーBBでプロバイダー契約してるおかげで、ここでの無線LANに接続できる。まわりはカップルが多い。右には高校生らしき純な二人。左には、同伴してる(と思われる)二人。斜め右前には、やっぱり学生らしき二人。と、ここまで書いていると、右のカップルの男がしくしく泣き出した。さっきまでいちゃいちゃしていたのに、何があったのろう?まあ、いいや。いろいろあるよな。がんばれ、若ぞう!って俺自身は何をやってるんだろう?いわゆるデバガメってやつ?

それはさておき、今後の予定を。来週の水曜までは、明星の講義がある。次の日には、フィリピンに行ってリラックスしてくるつもり。久々に子どもに会える。自分の子どもと一緒に暮らせない苦しさ。これは天罰だな。どうにかならないものか。もどかしい。

Tuesday, August 01, 2006

明星のスクーリング

今、明星大学通信教育のスクーリングに来ている。約4週間、9時から5時までびっちりと授業が詰まっている。こんな学生気分は久々のことで、なんか楽しい。

明星のキャンパスは、思ったよりも充実していると思う。っていうか、結構な金があるらしい。今も新しいビルを建築中だし。

明星の通信教育には今年の4月から申し込んでいたのだけれど、仕事で忙しくてなかなかレポートを提出できなかった。言い訳にしか聞こえないだろうけど・・・。

とにかく、このスクーリングをきっかけに、勉強する習慣を持ちたいと思う。目指せ小学校教員免許!

Friday, July 28, 2006

小学校教員 1学期終了!

実は、今年の4月から某小学校の4年生の担任をしている。臨時採用であるにしても責任重大であることには変わりない。養護学校で短期の経験を経た後とはいえ、結構大変な1学期だった。

4年生ともなると、行事が目白押しで、それを1学期に押し詰めているのだから大変だ。やれ、社会科見学だ、福祉体験だ、遠足だ、さあ、次は、XXXXだ、という風に、じっくり考える余裕を与えない。家庭訪問、授業参観に懇談会(それも1学期に2回も!)もあった。経験の浅さのために見通しを立てて行動できないから、なおさら大変だ。

校務分掌で主任や副主任になっているものもあるので、そちらも大変。

授業はどうにか元気よく乗り切ったつもり。それでも自分の雑さにあきれることも多い。プリントは出せば出すほど、添削の仕事が増えて大変なのだけれど、やらずに逃げる子もいて、その子に後で同じプリントを提出させようものなら、他のプリントの添削と相まって、それこそ時間に追われる。結局1学期中は、添削しきれないものもあった。評価用の業者テストは全部こなすことはできたけれど。

じっくり子ども達と接したいと思っても、今は一斉下校をさせる都合上、居残りさせるわけにはいかない。帰りの会は結構あわただしい。

それでも今、子ども達を心底かわいいと思えるし、子ども達の力を伸ばしてやりたい気持ちで、充実した毎日を過ごすことができた。

今は夏休み真っ最中。子どもたちも顔が輝かして遊んでいることだろう。2学期が楽しみだ。

Sunday, March 26, 2006

養護学校で臨任してみて

この一ヶ月間は、養護学校で臨任として一年生の担任をしました。新任の臨任教員が学年末に右も左も分からぬまま飛び込んできて、他教員を困惑させただろうことは重々承知しています。随分甘えてしまった面も否定できません。それでも、ほとんどの教員が私に温かく声をかけ続けてくださり、大変勇気付けられながら最後までやってこれました。24日、無事に修了式の日を迎え、任務を終了しました。本当にありがとうございます。

最初の一週間は、本当に目が回りそうでした。一日の流れどころか、人の名前や校舎の配置など、全くといっていいほど知らず、気忙しさや緊張感が入り混じって、本当に疲れました。登校は誰が何線でくるのか、帰りは誰が何線のバスに乗るのか、また、誰が学童へいくのかといったことを知らないどころか、一体何線のバスがあるのかさえ知らない状態でした。気持ちが落ち着いたのは、2週目あたりからでした。

初任3日目、F先生が年休をとったときは、すったもんだでした。それは、ちょうど遠足の日でした。遠足自体は他の先生やボランティアの人が補助してくれてそれほど大きな問題は感じませんでした。が、学校に戻って帰りの会をしようとしたときは、どうにか着席させてみたものの、その後の流れがよく分からず大変でした。日直当番をすることが大好きなST君が、たまたま当番をやっていたので、彼に任せるふりをしてある程度はごまかせたものの、彼をしてもある程度は私のリードを必要とするわけですから、ちぐはぐもいいところでした。こういう状態のときは、○○君という名前だってとっさに出てこないものです。

クラスには5人の児童がいて、私を含めた二人の担任に加え、登校・昼・下校時に限ってもう一人の教員が加わって指導していました。もう一人の教員というのが自立活動を担当していて、この先生、実は私の中学のときの同級生なのです。初めのうちは少し気恥ずかしい感じもありましたが、すぐに吹っ切れました。お互い何はともあれプロとして人様の子を預かっているわけですから。

クラスでは、お決まりの歌や挨拶の文句があります。「先生とおともだち、先生とおともだち、挨拶しよう、おはよ~。先生とおともだち、先生とおともだち、握手をしよう、ギュ、ギュ、ギュ~」「トントン、○○○○君、(はい、おはよう、元気元気!)」「あな~たのお名前は、あな~たのお名前は?・・・(○○○!)・・・あら、素敵なお名前ね~」など、私は当然初めは知りませんから、戸惑いました。知ったかぶりにも限りがあります。ですが、私がクラスでの決まりごとを知らなくておどおどすれば、たちまち見抜かれてしまいます。ごまかしつつ、もうひとりの担任に任せていましたが、そうしているうちは、なかなかこれらの歌も覚えられませんでした。自分でクラスのリードをした後、ようやく自信をつけて歌えるようになったと思います。

子どもたちには個性がありました。当たり前のことかもしれません。ただ、任務前には、養護学校の子どもにどう接していいか全く見当がつかず、自閉症や学習障害という言葉(タグ)が先行してしまっていました。しかし、子どもによって発達過程が違い、今できること、または、できつつあることが違うのです。正直言って、どこまで手助けしてやるべきか迷いました。一人ひとりのことを知らなければ分からないのです。

今日は学校で何があって、何が出来たのか、あるいは体調はどうだったかなどは、連絡帳で外部に伝えます。連絡帳は学校以外での生活態度を知ることや、家庭や施設との連携に役立ちます。連絡帳をつけるのは、子どもたちが下校前に着替える間です。単に着替えといっても、介助が必要な子もいますし、また、いくら言ってもなかなか着替え始めない子もいます。ですから、たった2、3人分の連絡帳でも結構大変でした。ご家庭のみなさん、私の乱筆乱文をおゆるしください。

初めのうちは、児童たちも新任の先生のことを、どこまでしたら叱る先生なのかと観察していたようです。何をしても叱らないとあれば、てんでんばらばらで収拾つかなくなります。ただ叫んでも全く効き目なしです。しかし、こちらが何度となく指示しても一向に言うことを聞かなかった子でも、F先生が一喝すると、スーっと従ったりします。自分の経験値や力量の無さはもとより、信頼関係構築の大切さが如実に感じさせる一こまでした。

自分の力量の無さは、給食の時間に実感します。それは、好き嫌いの激しい子を食べさせるときです。SH君に対しては、好きな果物を最後まで預かっておき、例えば、「これを食べ終えないとこのイチゴは食べられませんよ」と言って食べさせます(脅し!?)。また、スープ類が好きなので、小分けにして与えないとバランスよく食べてくれません。他方、YH君はまだ、スプーンやフォークが使えません。また、自分の手で食べ物を持つと散らかしてしまうだけです。好き嫌いがとても激しく、与えてもすぐ吐き出してしまいます。好きなものに隠して他のものを食べさせようとするのですが、このときのYH君の観察眼は普段と打って変わってとても鋭く、すぐ見抜いてしまいます。この二人、入学当初に比べて改善したとのことです。私の力が至らないために、甘やかして好き嫌いを増長させてしまったのではないかと今更ながら反省しています。

私の無知のために、先生方の努力によって子どもたちから引き出してきたことを逆行(退行)させてしまったことは多々あると思います。例えば、SH君の小便排泄。彼はまだ小便や大便の失禁をしてしまうことも時々ありますが、トイレに行って小便便器で用を足すこともできます。担任のF先生は今まで、彼が大便便器から小便便器で用を足せるように導き、ひざ下まで下ろしていた彼のパンツを徐々に上げさせてきました。しかし私が初めてSH君をトイレに連れて行ったとき、私は彼が性器を手でつままずにズボンを濡らしてしまうことに見かねて、下着とズボンをひざ下まで降ろすよう指導してしまったのです・・・。F先生、申し訳ありません。SH君、混乱させてごめんね。

全般の反省を通しての救いは、すべての先生方から友好的に接していただいたこと、それと、何にも増して、子どもたちが可愛くて可愛くて仕方なかったという気持ちがあったことです。海外にいて会えぬ実子を、クラスの子どもたちの中に重ねてみていたことも否めません。自分の子のように可愛い。私はその気持ちを別に隠すことも無く出しましたし、素直な子どもたちのことですから、その気持ちがストレートに伝わったとも思います。大変なことでも辛いと感じなかったのは、そういった気持ちが基本にあったからではないかと思います。

現場に入り、子どもたちを観察し彼らと関わることができたからこそ得たもの、また捨て去ることが出来たものがあると思います。たった一ヶ月ですが、足を踏み入れたことがあると無いとでは大違いです。自信もつきました。

Tuesday, March 21, 2006

WBC 日本プロ野球よ

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)日本vs.韓国韓(19日)と日本vs.キューバ(21日)をTV観戦。日本はこれまで、韓国戦で2連敗。メキシコがアメリカに勝ち、奇しくもおこぼれで準決勝に進んだ日本だが、その日本が韓国戦3戦目にかける意気込みは、「死に物狂い」という感じだった。しかし、今度の日本は強かった。投げて勝ち、打って勝った。

対キューバ戦は、サウナに入りながら観ていた。世界最強といわれるドミニカ共和国を破って決勝戦に進んだキューバは、ホームラン2本を含む迫力のある打撃を見せ付けた。それでも、日本は圧勝した。

野球を初回から観ることは最近あまりなかった。実は公式戦はほとんども観なくなってしまっていた。WBCにしてもアジアラウンドはニュースで結果を知るのみだった。準決勝と決勝は、休日の昼ということもあって、じっくり観ることができた。それもライブで。なかなかの緊張感があっておもしろかった。イチローをはじめ、日本代表選手が優勝にかける意気込みが伝わってきた。

日本野球の底力を見せつけたことで、プロ野球ペナントレースも少しは人気をぶり返すのではないか。アメリカと日本の野球を比べてイチローが、大リーグに学ぶべきなのは醒めた人間がほとんどいないことと言っていたが、選手や観客がもう少し燃えることにつながるかもしれない。あるいは、海外からのオファーがより増えて、優秀な選手の流出が加速してしまうだろうか。とにかく野球がもっともっと面白くなって欲しい。

試合はPETCO PARK(サン・ディエゴ)の球場で行われていた。天気もいいだろう。こんなところへ散歩がてら野球観戦できたら、野球が日常に入ること間違いなしだと思った。

Monday, February 13, 2006

ホリエモンの行方が気になる

オンライントレードの普及がITバブルを生み、いずれはバブル崩壊という形で家計を揺るがすのではないか。個人ネット株が崩落して多くの家庭崩壊をもたらすのではないか。そんな危惧をしていた矢先、ライブドア事件が起きた。ある意味、大事に至る前に警鐘を鳴らすことができたといえるかもしれない。

渦中の堀江前ライブドア社長、通称ホリエモンは、一般人のヒーローでもあった。ホリエモンが逮捕されたとき、マスコミ各社は彼のことを堀江容疑者と書いた。が、堀江容疑者はこれまでにも、「破壊者」「挑戦者」「救世主」などと形容されていたし、さらには「IT長者」「改革の旗手」「ネット界の寵児」ともてはやされていた。良くも悪くも「時代の顔」であることには間違いなかった。残念ながら、彼が起訴されれば次は堀江被告と呼ばれることになる。

かくいう私は実はホリエモンには一目おいていた。ホリエモンが高崎競馬や近鉄バッファローズの買収話によって知名度を上げた結果、株価を上げたことは、驚くことはなかったが、投資の実力の証明だと思えた。一般人では思いつきこそすれ、行動に出すことは出来なかっただろう。04年11月20日の朝日新聞・Be on Saturdayのインタビューのやり取りには、彼のビジネスに対する姿勢が出ていて面白いので、切り抜いてとっておいた。ちょっと紹介したい。
― つねに投資家の心をくすぐり、株高を誘う「猫じゃらし」商売と評判です。
堀江: 会社って株式をもうけさせるための仕掛けですから。そう思うのは勝手ですが、僕はもうけたいだけ。意図しているわけじゃない。狙って出来れば、世の中、ヒット商品の山ですよ。

― 他の企業に比べ、頭一つ抜けて見える最大の理由は。
堀江: 単純に、普通の経営者に比べて若いからじゃないですか。(略)みんな、やっぱりスピードが遅い。僕も体力的、精神的にいっぱいいっぱいでやってますが、これを50歳でやれと言っても無理。だから、いちばん時間がかかる情報収集と知識の吸収ができていない。

― 東大在学中の96年に起業してますね。
堀江 バイトしてみて、インターネットが大きな市場になることが分かったし、これならナンバーワンになる可能性があると。大学には、ほとんど行ってません。東大には、入ったことが重要で、あとは、「何年入学だよね」「あっ、同じじゃない」って、人脈も勝手にできるんですよ。

― で、業績を順調に延ばし。
堀江: ええ、本当に頭のいいヤツって、なぜか起業しないんです。だから、楽に勝てた。

― サラリーマンになろうと思ったとは。
堀江: 一度もないですね。まず、搾取されるじゃないですか。(略)60歳超えて社長になって、権力握ってカネ持っても、何もできないじゃないですか。食べる量だって減るから、うまいものもあまり食えないし。しかも、ポストはピラミッド型で、社長になるのは一人。こんなねずみ講みたいなシステムを何で信じるのかって。

― 日本が窮屈では。
堀江: 米国に行ったら、自分はワン・オブ・ゼムに過ぎないんですよ。日本だから、「変なヤツ。クレージーだ」と言われながらも、オンリー・ワンなんですよ。願ったりかなったりです。

― お金で計れないような価値を広めたいとは思いませんか。
堀江: それに何の意味があるのか、逆に教えてほしいですよ。世の中、おカネで買えないものはないし、おカネの前ではすべて平等なんです。いくら貧乏でも、才能があれば、それをおカネに換えられるし、頑張った分だけ報われる。頭がいいとか、運動能力が高いとか、芸術的な才能があるとかって、絶対的な基準で比較はできない。でも、稼ぐお金で推し量ることはできるんです。

― 夢はなんですか。
堀江: ないですね。飽きっぽいんで。社長をやっていいのは、最低限もうかれば、何をやってもかまわないところ。知的好奇心を満たすため、毎日、毎時間、違うことをやって、それは満たされている。夢見たいな感傷的なもの、持たなくていいんですよ。

どうだろうか。胸がすく思いがしたり、あるいはムカついたりと、もちろん賛否両論はあるだろう。「ホリエモンは好きになれないけれど、既得権益にしがみつく奴等はもっと嫌い」という声もチラホラ聞こえる。彼のしていることや言っていることは、日本社会に対する戦略(挑戦?)なのであり、日本という土壌があったからこそありえた、と私には思えてならない。現にホリエモンは、日本の市場以外で稼いでいなかった。(もし、世界で勝負できるとすれば、日本で資本力を築いてからと思っていたのかもしれない。)また、ビジネス・ライクとして世の中を割り切れば、ある意味ホリエモンの話はすごくまっとうだ。資本主義を引っ張ってきたのはこういう発想の人たちなのであろうし、ベンチャー・ビジネスならばなおさら、資本力づくりを優先させなければなるまい。

ところで、特捜があれだけ執拗にライブドアをターゲットにして動いているのには、何か逆恨み的な、権力者の根回しをにおわせる。つまり、裏でとある権力者が指図しているということだ。私はそれは、先の衆議院総選挙で広島においてホリエモンと対立して立候補していた、亀○静香・国○新党(日本)代表あるいはその取り巻きがあやしいと思う。選挙で対立候補者のあら探しをするのは当たり前のことだ。専門家にあれこれ調べさせるうちに、よくありがちな株式操作の闇の部分が浮かび上がってきたのだろう。それを根拠に検察を動かしたとすれば納得いく。もし、ホリエモンが選挙に勝っていたとしたら、ライブドア事件が自民党に与えた打撃の大きさはどんなに大きかったことだろうか。

そして今や、全マスコミないしは総国民が反堀江になりかねない状況だ。新聞もテレビも皆が一転して、汗水流さぬライブドアの虚構を叩き始めたとき、新聞の下部に掲載されている広告の、とある雑誌の見出しが目に入った。それは次のように書かれていた。

<総力特集> 資金が少なくても、お金が2倍、3倍に増える 苦労知らず投資術 最短で1000万円を作るツボ

何のことはない。やはり世間一般は、第二の堀江を目指していたのだ。

自民党の武部幹事長は、昨年の総選挙でホリエモンを応援したことで批判を浴びた。同氏はホリエモンについて今、「まだ33歳。10年かかろうが20年かかろうが、能力も持っている。資質もあるとみた。石もて追い返すだけの日本であってはいけない。再挑戦の機会がなければ」と言っている(朝日新聞・朝刊 06年2月12日)。それもそうだし、何より、ホリエモン的発想の人間をつぶしてはならない。多様な価値観を持った人々が切磋琢磨しあえるのが、民主主義社会の利点なのだから。

Sunday, February 05, 2006

かずお先生からの返信!

これは嬉しい!先日紹介した「語りかける中学数学」の、インターネットサイトの投稿ページ「みんなの広場」でのことですが、著者のかずお先生(勝手にこう呼ばせていただきます!)から私のメッセージ宛にお返事をいただきました。明らかにお忙しい方のはずですが、一読者のためにインタラクティブ(双方向的)に接してくれたのです。感動です!こういうのってすごい!本の中だけでなく本の外でも、語る人になってくれているのですよ。それにしても、本を書くほどの人っていうのはやっぱり何か違いますねえ。ハートが違うんでしょうね。

Thursday, February 02, 2006

語りかける中学数学

05年の12月半ば以来、「語りかける中学数学」という本を黙々と勉強してきました。総ページ数767と、決して薄い本ではありませんが、肩の凝らない語り口調の内容で楽しく読め、気付いてみたら数学好きかも、という自分がいました。これで中学3年間分の数学を一通り、目を通したことになり、何か気持ち的に余裕が出てきた感じです。これからが大切なんですけどね。

この数学の本、読みやすくてお勧めです。私のように数学を今更ながら勉強してみたい人、中学校の基礎的学習に背を向けて生きてきたけれども試験で必要という人、または本当に若い人の中には、数学の理解のために何かないかと探している人がいるかも知れません。そんな人たちには、この「語りかける中学数学」(高橋一雄・著、ベレ出版)は最良の伴侶となってくれるでしょう。ホント、個人教師からレッスンを受けているように読めますよ。

語りかける中学数学
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高橋 一雄
ベレ出版 (2005/08)
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このような本をもっと早くから読むことが出来たならば、私も経済の勉強や、統計、人類学の調査などにもっと、自信を持って取り組めたのになぁと思います。いやいや、今でも遅くはない、これから!これから!!いずれは、高校数学版も出るとのことなので、そのときはまた挑戦するつもりです。

計画的に読み進め、達成感もあったので嬉しくて、著者のホームページにお礼のメッセージを書き込んでおきました。 敬礼!

Tuesday, January 24, 2006

子どもの最適化と我々のブレない未来

日本語で言いづらいことが、英語だとスラっと言えることがありますよね。例えば、「I love you」。パートナーや子どもに頻繁に使うことによって絆も深まります。ところが日本語ではどうでしょうか。「愛してます」「好きです」と言うのは一度ならともかく、何度も言うのは照れくさいし、何よりも不自然ですよね。これには理由があるようです。

アメリカや多くの欧米文化圏では、明示的、直接的、曖昧さの少ないコミュニケーションが効果的と言われ、意味するものを可能な限り正確かつ率直に言う人がグッド・コミュニケーターとされます。この場合、発せられる言語メッセージそのものに第一義的価値が置かれますので、「I love you」と言わないということは「I love you」という気持ちを持っていないと受け取られます。

一方、日本あるいは東洋の多くの国では、話される言葉はコミュニケーション全体の一部に過ぎず、社会的関係、政治、道徳などに裏打ちされた調和を大事にします。既存の適合ルールを無視してぺらぺらと一人勝手にしゃべっては、逆に欺瞞にとられかねません。沈黙でさえ、相手の気持ちや立場を察する感受性を持っている証として、しばしば歓迎されます。調和することが目的なのですから。

さて、調和を目的とする前述の日本の習慣に対して一石投じたく、私は先日、漱石の「草枕」のくだりについて書いたのですが、その漱石のくだりを思わせるような投稿が、朝日新聞・朝刊(06年1月23日)にありました。それは、身近な子どもとのコミュニケーションに心を砕く最近の子どもたちについてです。

「一人だけ違う意見を言えない。言えば嫌われるので我慢して合わせるか、できる限り曖昧な表現を駆使して伝える」

なんともまあ、息苦しいこと。子どもたちも大変です。何しろ、学校という閉鎖的な空間に身をおくことを半ば強制されているのですから。

私たちの生活は今、西洋・東洋と単純に二分して語れませんよね。鎖国しあってるわけじゃあるまいし。ある程度のことは情報としては知っています。また、海外で長く生活すれば、日本の習慣が逆カルチャーショックとしてうっとうしく感じる人もいることでしょう。そんな世の中だからなのかは知りませんが、習慣(因習?)と心とが調和できていないのが現状のようです。

また、同じ日の朝日の「声」欄に次のような投稿がありました。

「英語教育が、閉塞した精神状態の子どもたちの自己を解放する機会となれば、(小学校からの英語教育に)大いに賛成なのですが。」

ここで前提となっているのは、「閉塞した精神状態の子どもたち」ということです。一体どうなってるのでしょうか。日本語が閉塞感をもたらしているのでしょうか。それとも、日本語を話す環境が子どもたちを追い詰めているのでしょうか。

私は小学校の英語教育に賛成です。けれども、それは日本語や日本文化をぶち壊したいからではありません。相手のことをもっと知って、世界的調和のための感受性を養ってもらいたいからです。世界の特定の人がMaximization(最大化)を目ざしているとするなら、世界の子どもたちは同じ地球に生きる同志としてOPTIMIZATION(最適化)を目ざすべきだと思います。文化が変容していくとするなら、そういう方向に向かって欲しいと願っています。

最適化するという目的をもてば、たとえたまには失敗することがあったっとしても、それは全然ブレていません。最適化した未来のために理想を追って何が悪いのでしょう?自分を家族や地域に最適化すること。地域を国に最適化すること。国を地球に最適化すること。そうした「ブレない」理想を持ったうえで、学校のあり方だとか、ボランティアのことだとか、ひいては自分の夢やらを語るべきだと思います。そうです。子どもたちがどうやって最適化できるかを我々大人が考えて行動する。それが、今と未来をつなぐ道ではないでしょうか。

Saturday, January 14, 2006

草枕

「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(夏目漱石 『草枕』 ポプラ社)

すべててのことを理知的に割り切ってすれば、人の意見とぶつかることが多くうまくゆかない。すべてのことを人情的にやろうとすれば、人の気持ちにこだわることになってうまくゆかない・・・。(上記本の注釈より)

分かるなあ。自己意識の強い世の中だからね。思ったことでも、あえて言わないでおくことってよくある。自慢話になるようで悪いからね。でも、同調ばかりじゃ自分じゃなくなる。相手にとってもつまんない奴では申し訳ないだろう。開き直って我を通せば、結局は漱石の言うように自分を窮屈に追い込むだけ。かといって、閉じ籠もってちゃ自意識過剰になっちゃうしね。

Friday, January 06, 2006

サウジのショッピングモール「キングダムセンター」の3階

「女性たちからベールをはがし、それを建物にかぶせた・・・ 」 

サウジアラビアの首都、リヤドに出来たショッピングモール「キングダムセンター」の3階がフロア丸ごと女性専用ゾーンになったことに関して、ニュースウィーク日本語版(06年1月11日号:p50)にそう書いてあった。 同誌によると、3階フロアが一番の売れ行きなのだそうだ。

「女性専用フロアなら、サウジの女性たちは心おきなく買い物をしたり、おしゃべりをしたり、食事をしたりできる。スパでくつろいでも大丈夫。長老たちの神経を逆なですることもなければ、厳格なイスラム法に触れることもない。」(同誌)

なるほどねえ。そうきたか。男の目がなければいいんだもんね。

さて、どうでしょうか、冒頭の言葉をどう読みましたか?。私はこう読みます。つまり、ショッピングモールがサウジの女性の地位向上に一役買っている、と・・・(素直に読めばそう読めるよね)。

資本主義社会における「買い物」(する権利)は、民主主義的資本主義の象徴みたいなもの。なぜなら消費活動が経済を牽引しているって言われてるんだから。そのうえ、ショッピングモール自体は良くも悪くもアメリカ文化の代表的な産物。だから、サウジがそのモールを輸入したということはイスラム社会に民主主義をもたらしたことになるって言いたいんでしょ。

しかし、どうも胡散臭いなあ。

たとえ一部の富裕層のみがモールで買い物できるだけだとしても、非民主主義的であるとしてしばしば西洋のメディアに取り上げられるアラブの、非民主主義的な抑圧を受けているはずの女性が、ふたを開けてみれば買い物の主役を担っていたことの方が、よっぽど注目に値するけどなぁ。

そういわれてみれば、日本も男尊女卑の社会として描かれてきたけど、女性が家庭の財布のひもを握っていることなどは、あまり話題にならない。経済活動の目的が、利潤を最高にするためか、あるいは生活を最適化するためかといった、(大切そうだけど)大げさな議論はここではひとまず置いておくとして、アラブ(=イスラム)社会にしても、偏見でしか伝えられてないことは多々あるにちがいない。生きることそのものと密接に関係している宗教(イスラム教)と、派生的な文化現象(ここでは女性のベールやモールでの買い物についてなど)は、内的外的な関係はあるものの、同列に語る類のものじゃあないよ。

ごめん、話の展開に無理があった?

要するに、見える断片を切り取って民主主義だ自由だと論じるから胡散臭くなるの!冒頭の言葉は、ショッピングモール(の輸出)がサウジの民主化を招いているとして一見面白い隠喩表現をしているようでいて、実はそれは、偏狭で帝国主義的な見方なんじゃないかな。

Monday, January 02, 2006

バンコクのストリートアート


このストリートアートに目が釘付けになった。え、本物・・・いや違う、てな感じで。投稿者によるとこれは、バンコクのストリートアートで、ホームレスの人々が新聞紙と土でつくったのだそうだが・・・。言葉に詰まってしまう。
Phlog - icel101

Friday, December 30, 2005

甥を連れて川原まで


甥が暇そうにしていたので、神流川へ連れて行った。ちょっと寒かったけど、陽は出ていたし、歩くことはやっぱり気持ちがいいもんだ。

さて、一枚目の写真にあるように、神流川は自然が豊かできれいだ。のんびり歩くのには最高。だが、今日はゴミ袋を持参してごみ拾いに徹した(「徹した」というのは言い過ぎかもしれないけど・・・)。実は、以前から川原のごみが気になっていたのだ。

川沿いはそれほど問題はない。それでもペットボトルやら空き缶やらが、あちこちに転がっている。水面が上がって流れが急なときに上流から流されてきたらしきものや、遊びに来た人が捨てていったであろう比較的新しいものまで。

土手から降りて川沿いに行くまでの間が特にひどい。ご披露しましょうか。それでは、どうぞ!




しかし、ごみがごみを呼ぶんだろうね。「ふざけんな!!」と何回こぼしたことか。これで目に余らなかったら神経疑います。とてもじゃないけど、一人できれいにしようといっても無理。少しずつごみ拾いしながら、同志を募っていこうと思う。

甥もこの惨状には理解を示してくれた。それでも彼の興味は別のところへ。川原できれいな石を拾ったり化石探ししたり。そしてなんと彼は今日、なまずを獲ってて見せた。

なまずさんよ、何かいいたいんじゃないのかい。愛嬌のある君の顔、少し悲しそうに見えた。

Sunday, November 27, 2005

腰をやられた・・・

嫌になっちゃう。せっかくの日曜日なのに、腰を痛めちゃってベッドから動けない。本当は今日、運動したかったんだけどね。

腰が痛いと本当に行動が制限されちゃうね。腰のちょっと上のあたりの背骨の2、3センチ横を指で思いっきり押すと、一時的に少し痛みが和らいで、その勢いでどうにか立ち上がり、歩いてトイレまで行ける。いったんトイレに座ったが最後、お尻を持ち上げるのが大変。

というわけで、今日は新聞や本を読んだり、ブログを見て回ったりして過ごした。昼間、家の前ではパーティーをやってて、笑い声が嫌味っぽくこだましてた。

今月からYahoo!BBに乗り換えて、ついでに無線LANの環境にしたおかげで今、こうやってベッドでインターネットを楽しめる。東芝のサブノート(軽量のノートブックが出た当時は、そう呼んでた)が、久々に活躍してる。PORTEGE3010CT。メモリーが64MBと少ないので、ちょっと不安定。これ、確かペンティアムのMMXとかいって、画像処理に強いということだったはず。まだまだいけるぞ、頑張れ!

Wednesday, October 26, 2005

LOHAS(ロハス)

LOHAS(ロハス)という言葉を最近よく耳にする。時代の流れなのか、新宿歌舞伎町のホストが街のゴミ拾いをしたり、若者が競って手首に白バンドを付けるのも、ロハス的な流れを汲んでいるといっていい。

ロハスとは、Lifestyles OF Health And Sustainability(「健康」と「持続可能な社会」に配慮したライフスタイル)のこと。 もともとは、米国の社会学者ポール・レイ氏が提唱した概念らしい。同氏らが90年代末に、全米15万人に価値観に関する調査をしたところ、「金銭的な豊かさや社会的成功を最優先しない」や「健康的な食生活に関心がある」といった考え方の人たちが25パーセントもいたそうだ。

その後、マーケティング用語として広まってきたのは承知のとおり。アカデミー賞授賞式の際に、ロハス関係の団体がレオナルド・ディカプリオらに、リムジンではなくトヨタの「プリウス」で会場に乗り付けてもらうパフォーマンスを成功させるなどして、着実にその名や概念をを社会に浸透させてきた。

今やLOHAS市場は盛況も盛況。アメリカだけでも227,000,000,000ドル(約25~26兆円)規模の市場価値があるというから驚きだ。

ネットで「LOHAS」と検索すると、ヒットの多いのは日本サイト。いかに日本で注目されているかがわかる。LOHASは日本人の心情に訴えやすく、また、日本人の多くがこういった流行に敏感で躍らされやすいからかもしれない。

下記はネットで拾った、ロハス市場の5つのカテゴリーhttp://www15.ocn.ne.jp/~hurusato/page002.html) :

1. Sustainable economy(持続可能な経済)
  *風力発電等の再生エネルギー
  *省エネ商品&グリーンな都市計画&交通手段、
  *社会貢献活動(やりがいを持って社会貢献できる仕事) etc.

2. Healthy Lifestyle(健康的なライフスタイ)
  *オーガニック&自然食品、
  *サプリメント、有機野菜や化学添加物の少ない食品、健康食品
  *ナチュラルなパーソナルケア商品(オリーブ石鹸など)  etc.

3. Alternative Healthcare(代替ヘルスケア)
  *自然治療、はり治療、運動
  *病気と同様な症状を発見させる物質を使用して治癒させるホメオバシー
  *漢方薬や場合によってはアロマセラピーなどで、なるべく薬に頼らない、
    ホリスティックな疾病予防  etc.

4. Personal Development(自己啓発)
  *ヨガや習い事、フィットネス
  *能力開発や精神性の向上のための、CD、本、セミナー
  *人間関係への時間投資
  *好奇心を持って理想実現のために行動したい  etc.

5. Ecological Lifestyle(環境を配慮したライフスタイル)
  *環境に配慮した家やインテリア、
  *エコ関連の各種商品(家庭用品、オフィス商品)
  *価格よりも性能がいい商品を選択
  *身近に自然を感じていたい  etc.

なお、月刊ソトコト誌によると、ロハス的発想には次のことが挙げられるとのことだ。 Umm、美しい!
  • 質素な生活を目指すのは素晴らしい。
  • 異文化に興味がある。
  • 持続可能な地球環境を支持する。
  • 地域社会を再生したい。
  • 政治にあきらめを感じていない。
  • 創造的時間を大切にしたい。
  • 女性の社会進出は当然だ。
  • 私は理想主義者だ。

  参照:朝日新聞be on Saturday(05年9月17日)、朝日新聞・朝刊(05年10月25日)

Sunday, October 16, 2005

官僚主義と義務教育

些細な報告に際するペーパーワークや押印、時間をかけて何部署もたらい回しにさせられた挙げ句に聞く「また後で」、行事に参列したときに聞かされる延々と続く挨拶。公務員による税金の無駄遣い。官僚主義または官僚制といった言葉は、巨大化された組織体の融通の利かない形態やその原理を指して使われる。私たちは、生活上の「お役所的」なことは面倒くさいとして嫌うし、また、評論家や学者たちは、非民主的独善性、セクショナリズム、法規拘泥状態などと難しい言葉を並べながらそれを批判する。

没個性や無駄の象徴ともいえる官僚主義が問われている。最初は合理化・能率化を高めようとして始めたことでも、陳腐で無意味な因習になりえる。思考から切り離され機械的になっても、必要や欲求に適さなくとも、あるいは今ではすっかり反道徳的になったことでさえ、決まりだからと言って従わされる。無駄なコストがかさむ。組織の中で生きることに苛立ちや息苦しさを感じる人は、思考や創造性、価値観が画一化され、妨げられているとして嘆く。

学校教育も例外ではない。国による画一的な教育から、人々のニーズに応じた弾力的で多様な教育へと、時代の要請が変わってきた。しかし、戦前・戦中の道徳観が戦後の空気にさらされているにもかかわらず、規範規則だけが旧態依然としていたら、感受性の強い子どもたちが敏感に反応しないはずがない。むしろ、反応する子は正直だといえる。不登校、校内暴力、いじめやその他の非行は、時代の変化のなかで生ずる歪と無関係ではないだろう。

義務教育費国庫負担金(国から地方へ税源の移譲をすべきか否か)の問題も、文科省の官僚主義的態度が核心だ。現場を知らないお上の発想で、縦割りにした教育のままでは、知識偏重教育や偽善ボランティア精神、拠りどころの無い判断力、実力の伴わない経験がはびこるだけかもしれないではないか。教育の質に地方差が生じることを懸念というが、一体、何をもって教育の質と言っているのか見当がつかない。

佐賀県知事・古川康氏が、「分権改革 住民の満足度を高めたい」と題した論稿を寄せていた(05年10月5日、朝日新聞・朝刊)。
なぜ霞ヶ関ルールの行政がいけないのか。それは、せっかく住民から具体的な要望が届いたときでも、自治体が「国の基準で出来ません」と答えざるを得ないからだ。まるで、税金を納める住民の皆さんの声より、税金を補助金という形で地方に配る霞ヶ関の声を基準にしているように・・・。

Monday, October 03, 2005

あなたの悩み

なんか無駄なことをやってるんじゃないのか。こんなことをしていて良いのか。無意味だ。そんなことを考えているうちにさらに時間が過ぎ・・・。

どんな偉人も悩みました。かのトルストイにはいつも、「何のために?」「で、それから先は?」と根源的な疑問が付きまとったようです(トルストイ・著(原久一郎・訳)「懺悔」、岩波文庫)。「徒労」観を作品に織り込んだ川端康成。「漠然な不安」と言って他を去った芥川龍之介。あきらめの哲学の森鴎外・・・。表現の仕方は彼らほど芸術的でないにしろ、あなたも似たような心境にあることでしょう。

悩みが始まったときは、とにかく何かに打ち込んでください。何でもいいんです。余り考えなくて良いようなことを。そして失敗しても、ただでは転ばないぞという気概を持ち続けてください。きっと、あなたはさらなるオンリーワンとして、新たな、パワーアップした自分と向かい合うことになるでしょう。

Monday, September 26, 2005

小選挙区と死票

小選挙区は死票を多く出す。05年の衆議院総選挙が、このことを見せつけた。

「与党が3分の2の議席を占めた。自民党が圧勝した。」私たちは、そう知らされた。しかし、票数で見る限り、必ずしも自民党が圧勝したとは言えないらしい。

例えば、自民・公明両党の候補者の投票数合計は、3,350万票。それに対して、民主・共産・社民・その他全部を合わせると、3,450万票だった(05年9月26日、朝日新聞「天声人語」)。なんと、自民・公明以外への投票数の方が多い。

つまり、勝ち得た議席と投票数を比較してみれば、自民党以外に投じた多くが死票に終わったことが分かる。与党にとっては結果オーライだったかもしれない。しかし、民意を反映させるための衆議院解散と総選挙であったことを考えれば、釈然としないものが残る。

Monday, September 12, 2005

maskob's review誕生

映画鑑賞の投稿が比較的増えたので、一つのサイトにまとめました。

maskob's reviewというタイトルにして、さっき映画論評(ってほどのものではないけれど)関係のものだけ移しました。

一投稿ごとに移したけど、もっと効率いい方法がなにか他にあるだろうね、きっと。