Sunday, October 16, 2005

官僚主義と義務教育

些細な報告に際するペーパーワークや押印、時間をかけて何部署もたらい回しにさせられた挙げ句に聞く「また後で」、行事に参列したときに聞かされる延々と続く挨拶。公務員による税金の無駄遣い。官僚主義または官僚制といった言葉は、巨大化された組織体の融通の利かない形態やその原理を指して使われる。私たちは、生活上の「お役所的」なことは面倒くさいとして嫌うし、また、評論家や学者たちは、非民主的独善性、セクショナリズム、法規拘泥状態などと難しい言葉を並べながらそれを批判する。

没個性や無駄の象徴ともいえる官僚主義が問われている。最初は合理化・能率化を高めようとして始めたことでも、陳腐で無意味な因習になりえる。思考から切り離され機械的になっても、必要や欲求に適さなくとも、あるいは今ではすっかり反道徳的になったことでさえ、決まりだからと言って従わされる。無駄なコストがかさむ。組織の中で生きることに苛立ちや息苦しさを感じる人は、思考や創造性、価値観が画一化され、妨げられているとして嘆く。

学校教育も例外ではない。国による画一的な教育から、人々のニーズに応じた弾力的で多様な教育へと、時代の要請が変わってきた。しかし、戦前・戦中の道徳観が戦後の空気にさらされているにもかかわらず、規範規則だけが旧態依然としていたら、感受性の強い子どもたちが敏感に反応しないはずがない。むしろ、反応する子は正直だといえる。不登校、校内暴力、いじめやその他の非行は、時代の変化のなかで生ずる歪と無関係ではないだろう。

義務教育費国庫負担金(国から地方へ税源の移譲をすべきか否か)の問題も、文科省の官僚主義的態度が核心だ。現場を知らないお上の発想で、縦割りにした教育のままでは、知識偏重教育や偽善ボランティア精神、拠りどころの無い判断力、実力の伴わない経験がはびこるだけかもしれないではないか。教育の質に地方差が生じることを懸念というが、一体、何をもって教育の質と言っているのか見当がつかない。

佐賀県知事・古川康氏が、「分権改革 住民の満足度を高めたい」と題した論稿を寄せていた(05年10月5日、朝日新聞・朝刊)。
なぜ霞ヶ関ルールの行政がいけないのか。それは、せっかく住民から具体的な要望が届いたときでも、自治体が「国の基準で出来ません」と答えざるを得ないからだ。まるで、税金を納める住民の皆さんの声より、税金を補助金という形で地方に配る霞ヶ関の声を基準にしているように・・・。

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