Tuesday, January 24, 2006

子どもの最適化と我々のブレない未来

日本語で言いづらいことが、英語だとスラっと言えることがありますよね。例えば、「I love you」。パートナーや子どもに頻繁に使うことによって絆も深まります。ところが日本語ではどうでしょうか。「愛してます」「好きです」と言うのは一度ならともかく、何度も言うのは照れくさいし、何よりも不自然ですよね。これには理由があるようです。

アメリカや多くの欧米文化圏では、明示的、直接的、曖昧さの少ないコミュニケーションが効果的と言われ、意味するものを可能な限り正確かつ率直に言う人がグッド・コミュニケーターとされます。この場合、発せられる言語メッセージそのものに第一義的価値が置かれますので、「I love you」と言わないということは「I love you」という気持ちを持っていないと受け取られます。

一方、日本あるいは東洋の多くの国では、話される言葉はコミュニケーション全体の一部に過ぎず、社会的関係、政治、道徳などに裏打ちされた調和を大事にします。既存の適合ルールを無視してぺらぺらと一人勝手にしゃべっては、逆に欺瞞にとられかねません。沈黙でさえ、相手の気持ちや立場を察する感受性を持っている証として、しばしば歓迎されます。調和することが目的なのですから。

さて、調和を目的とする前述の日本の習慣に対して一石投じたく、私は先日、漱石の「草枕」のくだりについて書いたのですが、その漱石のくだりを思わせるような投稿が、朝日新聞・朝刊(06年1月23日)にありました。それは、身近な子どもとのコミュニケーションに心を砕く最近の子どもたちについてです。

「一人だけ違う意見を言えない。言えば嫌われるので我慢して合わせるか、できる限り曖昧な表現を駆使して伝える」

なんともまあ、息苦しいこと。子どもたちも大変です。何しろ、学校という閉鎖的な空間に身をおくことを半ば強制されているのですから。

私たちの生活は今、西洋・東洋と単純に二分して語れませんよね。鎖国しあってるわけじゃあるまいし。ある程度のことは情報としては知っています。また、海外で長く生活すれば、日本の習慣が逆カルチャーショックとしてうっとうしく感じる人もいることでしょう。そんな世の中だからなのかは知りませんが、習慣(因習?)と心とが調和できていないのが現状のようです。

また、同じ日の朝日の「声」欄に次のような投稿がありました。

「英語教育が、閉塞した精神状態の子どもたちの自己を解放する機会となれば、(小学校からの英語教育に)大いに賛成なのですが。」

ここで前提となっているのは、「閉塞した精神状態の子どもたち」ということです。一体どうなってるのでしょうか。日本語が閉塞感をもたらしているのでしょうか。それとも、日本語を話す環境が子どもたちを追い詰めているのでしょうか。

私は小学校の英語教育に賛成です。けれども、それは日本語や日本文化をぶち壊したいからではありません。相手のことをもっと知って、世界的調和のための感受性を養ってもらいたいからです。世界の特定の人がMaximization(最大化)を目ざしているとするなら、世界の子どもたちは同じ地球に生きる同志としてOPTIMIZATION(最適化)を目ざすべきだと思います。文化が変容していくとするなら、そういう方向に向かって欲しいと願っています。

最適化するという目的をもてば、たとえたまには失敗することがあったっとしても、それは全然ブレていません。最適化した未来のために理想を追って何が悪いのでしょう?自分を家族や地域に最適化すること。地域を国に最適化すること。国を地球に最適化すること。そうした「ブレない」理想を持ったうえで、学校のあり方だとか、ボランティアのことだとか、ひいては自分の夢やらを語るべきだと思います。そうです。子どもたちがどうやって最適化できるかを我々大人が考えて行動する。それが、今と未来をつなぐ道ではないでしょうか。

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