Monday, February 07, 2005

パリ症候群について

朝日新聞が2月2日、「パリ症候群」について取り上げていた。気になっていたので検索してみた。

あれ、朝日新聞の記事そのものが出てこない。まあ、いいか。とりあえず、2月3日の天声人語には出てきた。もしかしたら、夏目漱石はロンドン症候群だったのかな、などと思いを馳せてみる。

次に、関連サイトを読んでみた。
ね式(世界の読み方)ブログ
内田樹の研究室: パリ症候群
YUGO DE LETRAS(日々の記録)

さて、「パリ症候群」(syndrôme de Parisと)という名称は別段新しいわけでなく、1990年代には本の題名となっていたらしい。

フランスの新聞「Liberation」(リベラシオン)が12月13日、パリ症候群を取り上げたことから、改めて話題になったようだ。

まあ、「甘え」の延長上にある適応障害のことかな。

ちなみに、Amazon.co.jpの「甘えの構造」のレビューにこうある。


甘え」は「つきはなされてしまうことを否定し、接近欲求を含み、分離する感情を別のよりよい方法で解決しようとすること」と定義される。
本書では、「甘えの世界」として日本人の精神生活に根ざした「義理人情」などを取り挙げ、その観念体系を説明、「甘えの論理」で言語と心理の不可分の関係を論じた。また「甘えの病理」では「甘え」の延長線上にある「くやしい」という感情を解説し、その病理を「甘えと現代社会」という社会現象論にまで発展させていく。
あるいは、こうとも言える。仮に、多くの東洋文化におけるコミュニケーションの目的が、調和と社会的統合を促進することにあるとする。そこでの言語の役割は、既存の社会的関係、政治、道徳などと切り離せず、コミュニケーションの手段の一つに過ぎない。人は社会に適応するために、特別な感受性を発達させる。

例の良家の子女は、その社会集団の中で良い子になるように教育を受けてきた。しかし、パリのような、言語メッセ-ジに第一義的価値を置く(つまり、説得力のある内容自体により高い価値をもつ)社会に身を置くとなると、男性よりも非言語的キューを読むことに長けた女性ならばなおさら、「冷たい」仕打ちを受けているように感じてしまう。非明示的コンテクストを理解してもらえないもどかしさ。駄目人間として扱われているような劣等感。そして腹立たしさ。「こんなはずじゃない!何か違う!くやしい!」と。
これに加え、講の伝統にのっとってお国の代表者のつもりでいるから、より無理する。

やがて、「なんで私のことをそんなに悪く言うのよ!」と、被害妄想が膨らむ。「こんな自分は自分じゃない。人にみられたくない」と自分だけの空間を探す。内(家)にこもる時間も次第に長くなっていく。浅はかな目標はもう、微塵も無い。夢を見ていたことさえ忘れてしまう。次第に自分のコントロールも及ばなくなっていく・・・。(ピリオド)

将来への見通し不安、ことばによるコミュニケーション失調、対人恐怖、外出恐怖、壁から「自分をバカにしている声が聞こえる」といった被害妄想、そして自殺未遂・・・。フーム、同じ東洋社会に身を置いてきた者として、分からなくもない。

ここで思ったことは、それでは日本に来ている外国人はどうかということ。パリ症候群は、家父長制のような伝統文化も起因するようだから、在日外国人に対してそっくりそのままは当てはまらないかもしれない。けれど、それならば逆バージョンによって、似たような適応障害が起きているのでは?不登校児が増えている背景とか考えると、関係ありかな。

この件については、あとで掘り起こしてみよう。

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